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東京高等裁判所 昭和44年(う)1535号 判決 1969年12月17日

控訴人・被告人 有沢徳二

弁護人 二階堂信一

検察官 佐藤佐治右衛門

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役三月に処する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

公訴事実中、業務上過失傷害の点につき被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人二階堂信一の控訴趣意書に記載されたとおりであるからこれを引用する。

所論第一点(事実誤認の主張)及び第二点(訴訟手続上の法令違反の主張)について

しかして被告人は捜査官に対しては被告人が事故車の運転者であることを自白しているのであつて、所論は右自白の任意性、信憑性を否定するが、記録に徴しその供述に任意性のない疑いがあるとは到底認められないし、またその供述内容は大綱において措信できるものと認められる。被告人は逮捕された当初数日間は自己が事故車の運転者であることを否認していたが、検察官に対する昭和四三年二月二〇日付供述調書においてはじめて事故を起して逃走した事実を認め、次いで司法警察員に対する同月二一日、二二日の各供述調書において、更に再び検察官に対する同月二三日付供述調書において、いずれも同趣旨の供述をしており、なるほど前三者の供述調書において被告人は現場路上に対向して停車していたタクシーの後方に大人二人が立つているのを見たとか、男の人が子供を抱きかかえているのを見たとか述べているが、右は事故の前と後とを混同して供述したものと認められ、検察官に対する同月二三日付供述調書においては、これを事故の直前タクシーの後方には男が一人立つているのが見えたと訂正供述しているのであつて、その供述の訂正変更につき特に不合理なものがあるとは認められないし、いわんや、これらの供述が誘導に迎合してなされたものとは認められない。即ち初めて右自白をしたとき被告人の求めにより検察官が読み聞けた勾留状記載の被疑事実には事故直前タクシーの後方に人を見たことは何ら記載されていないし、当時検察官は被害者(幼児)の母親が先に下車して既に道路を反対側に渡り終りタクシーの後方にいた大人は父親のみであることを(参考人の供述により)知つていたものと認められるから、タクシーの後方に二人の大人がいたというのは被告人の自発的な供述をそのまま録取したものであることが明らかであり、このことに徴しても被告人の自白が誘導乃至強制によつてなされたものでないことを窺うに足りる。しかして、検察官に対する右各自白によれば、被告人は停車中のタクシーとすれ違うとき車体の右側にバサツと物のあたる音がしたので、一五米か二〇米行き過ぎたとき減速して座席後部の窓から見たら路上に子供が倒れ、大人の人が抱き上げようとしているのが見えた。四五粁位の速度で進行しているところに子供が当つたので大怪我をしたのではないかと思つたが、そのまま走り去つたというのであり、一方尾形秋男の原審における、事故の直後に見た事故車の番号の頭の数字は六九か九六であつたことを記憶しているが六九ではないかと感じている旨の証言(当審においても同趣旨の証言をしている)は、同人が自動車運転手を業とする者であり、その供述が自然であることからこれを措信するに足り、そのいう数字が被告人の自動車の車両番号数字の一部と符合することは、原判決挙示の物的証拠(被告人の自動車の車体前部右側に存する擦過痕と同部位から発見された羊毛繊維)に関する採取者、鑑定者の各供述並びに前示被告人の現場通過後の行動とともに右自白の信用性を裏付けるものということができる。されば被告人はその運転する自動車により被害者尾形智恵美との衝突傷害事故が発生したことを知りながら被害者の救護等法律の定める必要な措置を講じないでその場を逃走したものと認むべく、その所為は、道路交通法第七二条第一項前段第一一七条に該当するものであるから、原判示第二事実の認定は、その限りにおいては正当としてこれを是認することができる。なるほど原判決が右事実を認定するにつき、所論の審理、検証、鑑定まで行わなかつたことはその指摘するとおりであるが証拠調の程度、証拠の取捨判断は裁判所の健全な裁量に委ねられているところ、原審は所論の現場の状況については司法警察員倉持良男外一名作成の実況見分調書二通及び現場写真並びに弁護人作成の検証調書の取調をしており、所論の物的証拠については、その鑑定に当つた高生精也並びに同下瀬文雄作成の各鑑定結果回答についてと題する書面を取り調べたほか、右高生精也及び下瀬文雄をそれぞれ証人として尋問しているのであるから、これらの関係事項についてはこれにより解明済であると認めたものと解すべく、重ねて所論の検証、鑑定を行わなかつたことを目して審理不尽となすべき限りではなく、また被告人の所論自白(調書)に任意性のない疑があるとはいえず、その内容につき信用性を認め得ることは前段説示の通りであり、しかもこれら自白調書は、原審において被告人及び弁護人が任意性を争わない(但し証明力を争う)旨を述べて採用され証拠調のなされたものであるから原判決がこれを採用して事実認定の資料に供したのは相当であつて、毫も所論のような審理不尽乃至訴訟手続上の法令違反の非違は存しないものといわなければならない。されば、この点の論旨は理由がない。

しかしながら原判決は罪となるべき事実第二として、同第一の事実の記載を引用し「前記日時場所において前記の如く交通事故を起し尾形智恵美に傷害を負わせたのに被害者の救護等法律の定める必要な措置を講じないでその場から逃走した」と認定判示しており、右第一の事実は被告人が業務上過失により尾形智恵美に傷害を負わしめたというにあるところ、後記説示するとおり右傷害が被告人の業務上の過失によつて生じた事実はこれを認めるに由ないところであるから、原判決は右第二事実において「前記の如く交通事故を起し尾形智恵美に傷害を負わせたのに」と認定した限りにおいて事実を誤認したものといわなければならず、しかも右第二事実を第一事実と併合罪の関係あるものとして一個の刑をもつて処断しているのであるから、右第二事実の誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであつて、論旨はその理由あるに帰する。

所論第三点(法令違反の主張)について

所論は原判決が本件につき刑法第二一一条を適用して被告人に業務上過失傷害の罪責を問うたのは、同条の解釈、適用を誤つた違法がある、即ち深夜本件の如く人家の比較的少ない地域において自動車を運転し幅員六米の道路を進行中、反対側に対向して停車しているタクシーの後方に成人男子一名が佇立して被告人の自動車の通過するのを待つていることの認められる状態の下で、右停止中の自動車の蔭から突如として幼児が道路中央に小走りに出てくるが如きことは運転者の通常予見することのできない事態であり運転者はかかる異常事態にまで備えて事故を回避するため警音器吹鳴、減速、徐行の義務を負うものではないから原判決が被告人にかかる注意義務があることを前提としこれを怠つたものとして過失の責任を問うたのは刑法第二一一条の解釈適用を誤つたものであるというのである。

よつて考察すると記録によれば、被告人は本件当夜(午後一〇時一五分頃)普通乗用車を運転して原判示場所の歩車道の区別のない幅員六米の道路の左側部分を進行中、道路右側端に対向してタクシーが一台停車しており、その後部右角直近の路端にタクシーから下車したと思われる成人男子一名が道路を横断すべく、ひとまず佇立しているのを七、八〇米前方で発見し、時速五〇粁を四五粁に減速して進行したものであるが、かかる場合右佇立者が自動車の前照灯の光芒に何らの注意を払うことなく被告人運転の自動車の前方を横断しようとして突然被告人の進路前方に進出するが如きことは運転者の通常予測し得ないところであり、いわんやその者に同伴する幼児があつて監督者の手を離れて同様進出してくるが如きことはいうまでもないところであつて、運転者はかかる異常な事態に備えて、衝突等の事故を防止するため、予め警音器を吹鳴して警告し又は減速徐行するなどの注意義務を負うものということはできないところ、右証拠によれば被害者尾形智恵美(当時二年一〇月)は被告人の自動車が右停止車の左側を通過すべくほぼこれと並ぶ状態となつたとき、これに気付かず道路を右から左に横断しようとして突然右停止車の後方から小走りに被告人の自動車の直前に飛び出しその車体右側前部附近に衝突してその場に転倒し頭部打撲等の傷害を負うに至つたものであつて、被告人としては右事故回避の措置に出る余地がなかつたものであることが認められ、他に被告人が叙上の如き注意義務を怠り右事故を惹起せしめたことを窺うに足りる証左は存しないから原判決が被告人にかかる注意義務があるものとし、これを前提として、これを怠つたことによる業務上過失傷害の責任を問うたのは、事実を誤認し刑法第二一一条の解釈適用を誤つたものというべく、その誤りが判決に影響を及ぼすことは控訴趣意第一、二点に対する判断末尾に説示したと同様の理由により明らかであるから、論旨は理由がある。

よつて本件控訴はその理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八〇条、第三八二条によつて原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により被告事件について更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和四三年二月一三日午後一〇時一五分頃普通乗用自動車を運転して東京都足立区東和三丁目一八番四号先道路を時速四五粁で進行中道路右側に対向して停車していたタクシーの左側を通過するに当りその蔭から道路を横断しようとした尾形智恵美(当時二年一〇ケ月)が突然小走りに被告人の自動車の直前に進み出て車体右側に衝突して転倒し、よつて傷害を負うに至つたことを知りながら、直ちに運転を停止し負傷者救護の措置を講ずることなく、その場を逃走したものである。

(証拠の標目省略)

(法令の適用)

被告人の右所為は道路交通法第一一七条、第七二条第一項前段、罰金等臨時措置法第二条に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内において、被告人を懲役三月に処し、原審及び当審における訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項本文に従い、全部被告人に負担させるものとする。

本件公訴事実中、業務上過失傷害の点については、被告人に過失あることを認めるに足りる証拠がなく、犯罪の証明なきに帰するから、刑事訴訟法第三三六条後段により、無罪の言渡をすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(その余の判決理由は省略する)

(裁判長判事 遠藤吉彦 判事 青柳文雄 判事 菅間英男)

弁護人二階堂信一の控訴趣意

第三原判決はその理由中で判示事実を認定したうえで、刑法第二一一条を適用しているが、右適用は同条の解釈適用の誤があり、その誤は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

即ち、原判決は、被告人が「本件現場を通過する際前方道路右側に停車中のタクシーの後方に佇立するのを認め」「時速約四五キロメートルの速度で進行し」「右タクシーの後方より小走りに右方より左方に向い横断してきた尾形智恵美(当二年一〇ケ月)に気付かず」と認定しているが、本件の如き深夜、人家の比較的少ない幅六米の道路上において停車中のタクシーの直後から本件被害者の如き幼児が小走りに飛び出して来ることは、予見不可能であり且つすでにタクシーの後方には男一名のみが望認され、佇立して車輛の通過を待つている状態において、突然、かゝる幼児が出現することなど到底予見しえず、また自動車運転者はかゝる事態のないことを信頼し運転し得るべきであり、過失犯の注意義務違反の基である予見可能性の欠如ないし、いわゆる「信頼の原則」により、原判決の認定事実においては刑法第二一一条の構成要件該当性を欠くものと云わざるを得ない。従つて原判決は右につき法令の解釈適用を誤り、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

原判決には、以上の諸事由があり、原判決は破棄されるべきものと思料する。

(その余の控訴趣意は省略する。)

公訴事実

被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、

第一昭和四三年二月一三日午後一〇時一五分ころ、普通乗用自動車を運転し、東京都足立区東和三丁目一八番四号先の歩車道の区別のない幅員約六メートルの道路を綾瀬新橋方面から大谷田橋方面に向かい時速約五〇キロメートルの高速度で進行中、当時、前方道路右端に停止している普通乗用自動車(タクシー)から下車してその右後部角付近で佇立し反対側に向かい横断しようとしていた尾形秋男(当三四年)ほか一名の姿を右斜め前方約七〇メートルの地点に認めたのであるから、その動静を十分注視し、警音器を鳴らすとともに、減速徐行し、安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、単に時速約四五キロメートルに減じたのみにて先に同車の側方を通過すべく漫然進行を続けた過失により、おりから、父親である右尾形とともにタクシーより下車し先に下車して既に反対側に横断を終つていた母親を追つて右停止車両の後方より右方から左方に向かい小走りに横断してきた尾形智恵美(当二年一〇カ月)に気付かず同児に自車右側運転席ドア付近を衝突させて同児をその場に転倒させ、よつて、同児に対し、加療約一カ月間を要する頭部打撲等の傷害を負わせ

第二前記日時場所において、前記のごとく交通事故を起し尾形智恵美に傷害を負わせたのに、被害者の救護等法律の定める必要な措置を講じないで、その場から逃走し

たものである。

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